エチュード

「キエフの大門」-亡き友を送る壮大なレクイエム

[2001/12/09 第40回定期演奏会]

この秋、当団がお世話になっている指揮者氏がウクライナ共和国の首都キエフに短期留学された。そして現在の「キエフの大門」の様子を我々団員に語ってくれた。 それによると、門自体は、立派なのだがその周りに同じような高さの建物が多く建っていて、ほとんど目立たなくなってしまっているとのこと(たとえが変かもしれないが、本日、ご一緒させて頂く高知交響楽団の本拠地高知市にある有名な「はりまや橋」もそんな 感じではある)。

実は、現在あるキエフの大門は、1982年に建てられた比較的新しいものであり、したがって「展覧会の絵」のフィナーレを飾る「キエフの大門」そのものではない。いや、もっと正確に言えば、 ムソルグスキーの友人ハルトマンの描いた「キエフの大門」は、キャンバスの上だけに存在したもので、実際に建てられたものではなかったのである。 っもともと、11世紀にロシア初の統一王朝がキエフに出来た(そういう意味では、この都市は、日本でいえば奈良に最も近いのかもしれない。同様にサンクト・ペテルブルクは京都に、モスクワは東京に たとえられよう)。 時に、外敵を防いだ将軍を記念して建てられたが、その後、長い年月の間に破壊され、荒れ放題だったらしい。

「展覧会の絵」の棹尾(とうび)を飾る「キエフの大門」は、1869年にキエフ市が門を再建するに際して行われたデザイン・コンペにハルトマンが応募したものである。しかし、 結局この再建計画そのものが無くなってしまい、この絵に描かれた門は現実に建てられる事は遂になかった。

さて、西洋における「門」という建造物への人々の思い入れは、我々日本人とは、かなり違うような気がする。日本には、独立した建造物としての「門」が殆ど存在しないのに対して、 ヨーロッパには、パリの凱旋門やベルリンのブランデンブルク門、またアメリカのセントルイスにある「西部への門」等々、それ自体が観光名所になっている。もともとヨーロッパの都市は、 その全体が城壁で囲まれていた。 これは、勿論、外敵から都市全体を守る為であり、外と内との間にはせいぜい2,3の門しかなかった。 そういう意味では、規模は全く違うが、日本でも江戸の町々にあった木戸もそれにやや近いものがあるように思える。 当団員のドナさん(英国出身)のコメントでは、門は、その都市を訪れた者に対して、その都市の繁栄ぶりを示す為の象徴かもしれないとの事。
現在、ヨーロッパの多くの都市は、その城壁を取り払い郊外へと町が広がっている。例えば、音楽の都ウィーンでは、城壁を取り払った跡に勘定道路(リンクシュトラーセ)が作られ、 市電が走っている。

この「展覧会の絵」という作品は、ムソルグスキーがハルトマンの回顧展での絵の印象を音にした作品という意味の他に、亡き友人の果たせなかった夢を 音楽で実現させたという意味、あるいは、その友人を送るレクイエム(鎮魂歌)という意味も大きかったのではないかという気がする。

フィナーレの「キエフの大門」は、荘大な曲である。
しかし、上に述べた観点で聴いてみると、作曲者ムソルグスキーが親友を失った悲しみをこの曲の中で次第に美しい思い出へと昇華させていく様が 聴こえてはこないだろうか。 そして、ムソルグスキーは、最後にこの絵の中の門を友人がくぐり、遠い彼岸の地へ旅立っていく姿を永遠に自分の心に焼き付けたのかもしれない。

(ペンネーム:くまぐす)